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愛を読むひと(2010年、アメリカ)

愛を読むひと(字幕版)

見た後に考え続けてしまう映画。

15歳の少年マイケルと、17歳年上の女性ハンナの恋愛物語としてスタートするが、ハンナには重大な秘密があって…という話。恋愛要素の大いにあるが、ドイツが抱える社会問題と、罪と恥の問題が絡んできて複雑な様相を呈する。

 

なぜハンナは文盲であることを知られたくなかったのか?

1.ハンナがヒトラーを立ててしまったドイツ国民の象徴だという解釈

ドイツ人が現実を直視せずに、盲目的に独裁者に従ってしまったことへの恥を象徴している。文盲だったことを隠して裁かれるのは、さらに一部の人間にナチの罪を着せていることを表している。のちに法学生が「みんな知っているのに知らないふりをした」と激高することもつながってくる。

2.ハンナがロマだという解釈

本当はヒトラーとユダヤ人の話ではなく、ヨーロッパに渦巻く差別の歴史を描いている。この場合、ハンナが文盲であることを恥じているのは、自分がドイツ人ではないのを恥じているということになる。確かに映画の印象としてはナチスよりもハンナ本人の存在感が強い。

3.ナチスの原因になったドイツの貧困を描いている

ヒトラーがドイツ人の貧困を使ってユダヤを迫害したように、ドイツ内での貧困の象徴を描いている。ドイツ内でも階級の高い人間は教育を受け、罰から逃れられており、被害を被るのは貧困層のみ。文盲のハンナと教養のあるマイケルの関係にも描かれている。

 

2.は西部邁さんの説だそうで、けっこう納得感があったのですが、映画でも原作でもほとんど描かれていないことなのでさすがに製作所の意図ではないのかも(解釈としてはアリですが)。

 

ハンナは「真面目であることが長所」と冒頭で言われるように、言われた仕事をそのままやっていくことに長けています。その反面、他人の感情を読んだり、自分が有利になるように立ちまわったりすることはできないキャラクター。友だちがいないことや、マイケルとうまくコミュニケーションができないこと(マイケルの方が感情の言語化や人の気持ちを汲み取ることが得意)にもそれが描かれています。

特に裁判の時にその傾向が顕著に表れていて、自分に不利な発言でもしてしまいます。アウシュビッツでの事件も、職業人として言われたことをやるのみ、という態度で、アイヒマン裁判を思わせる展開でした。

 

なぜマイケルはハンナを救わなかったのか?

1.文盲であることを恥じたハンナを尊重した

元々文盲であることを隠すために昇給のチャンスを放棄して逃げ出したような人物。「彼女は裁判の証拠になることを恥じているから言えない」と教授に言ったことからも、そこを尊重したと考えることができる。

2.恐ろしいことをしたハンナを許せなかった

マイケルがアウシュビッツに訪れて恐怖に打ちのめされているシーンや、最後の「(無期懲役から)何を学んだか?」と問うシーンから、恐ろしいことをしたハンナを許せなかった、罰するべきだと思ったということも考えられる。

 

この問いは非常に難しく、1と2が混ざった心情だったのだと思いました。ハンナがあまりに恐ろしいことを平然とやったように思えて恐ろしかった一方、本当は本や音楽に感動して泣くような人物であることも知っていたし、真面目でコミュニケーション下手なことを知っていた(そして、そこを愛していた)。

心の折り合いがつかず、ハンナを救わずに逃げてしまったんだと思います。しかし、彼女だけが裁かれるのは間違いですし、自分が行動を起こせなかったことを後悔していた、だからテープを送り続け、出所するときには身元を引き受ける予定だったのでしょう。

 

ハンナが死ぬきっかけになったと思われる、「何を学んだか?」というセリフの意味は?

恐ろしいことをしたハンナを許せない気持ちが半分あったため、そこが変わったかどうか聞きたかった。おそらくハンナは当然後悔していたが(お金を生き残りに残していたことからわかる)、それを関係のないマイケルに裁かれる謂れはなかった。マイケルがそういう目でしか見ていないと思って絶望した。

 

これも難しい問いです。全篇通して「すれ違う二人」が描かれるのですが、このシーンが一番決定的なシーンでした。あんまりなセリフですが、マイケルがずっと聞きたかったことでもあるんですよね。ハンナが残したお金を文盲の人たちのための組織に寄付することになった流れからも、「盲目であったことが悪いのだ、個人が悪いわけではなかった」というメッセージに受け取れます。普通の人たちが真面目に恐ろしいことに手を染めてしまうのは、全体を見ないことによる思考停止が原因であるという、アイヒマン裁判と同じ話です。

 

ただ、こういう映画がアメリカ映画として英語で作られるのは残念ですね。