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ジョーカー(2019年、アメリカ)

Joker (Original Soundtrack)

公開日にさっそく見てきた。夕方頃で、満席。「本編後、明るくなるまで誰も立ち上がらない」タイプの映画だった。心をえぐり、重苦しい。爽快感があるようでない。帰りに、女子高生二人が戸惑った感じで「階段を降りるシーンがめっちゃかっこよかったけど、あれは本当に起こったの?」と語り合っていた。私も「ほんとどうなんだろうね」と思わず割って入りそうだった(危ない)。

 

初見は「本当は優しい可哀そうな男が、開き直って悪になるストーリー」と感じたのだけど、鑑賞後にレビューを見たり友だちと話したりしているうちに、そうでもないことにも気づいた。主人公の男は、優しいというよりは無力なだけで、心が美しいわけではないようだ。とりわけショッキングだったのは主演のホアキン・フェニックスによるインタビューで、明確に「女性を助けようと思っていない」と書いてあったことだ。下記はホアキン・フェニックスの言葉。

アーサーは女性が3人の酔っ払いに嫌がらせを受けているのを目撃するが、助けようとはしない。彼は実際、その男たちに魅了されている。男性がどうやって女性と話すのか理解していないんだ。「ああやって女性をひっかけるんだ。これがその方法なんだ」と考え、彼らを研究している。(何も知らない)子供のような心理で眺めているんだ。

https://www.cinematoday.jp/page/A0006925

 

 

それから、見ていた時には何とも思わなかったのだけど、「アーサーが小人をバカにしている」という指摘。自らが弱者であることを苦痛に思いながらも、自分よりも下だと思う者に手を差し伸べない。確かに、仮に自分が大男を殺してしまって、小人を逃がそうとしているとしたら、彼を脅かして笑おうなんて思わないかも。って、想像することも難しい出来事だけど…。

 

アーサーは白人男性だが、社会の最底辺にいる。そして、優しいわけでもなく、周りの誰にも関わることのできない無力な男だった。それは何も間違っていなくて、おそらくあのように虐待され、愛されることもなく育ち、友達の一人もいなければ高い確率でああなっていくのだと思う。貧しく虐げられた人が、実は心が美しかったり、向上心があったり、いい友達がいたりする…なんていうのは理想的な可能性としての妄想でしかない。

 

私が今「ジョーカー」について感じるのは、今まで見てきたたくさんの「どん底」映画だった。多くは、貧しさや絶望の中で見いだされる小さな美しさや心の強さ、人との関りを描いていたと思う。鑑賞する側の私は、彼らが小さな糸を手繰り寄せて幸せになっていく姿に感動し、安心していた。

しかし、ジョーカーで描かれているのは、もっと「ありえそうな現実」——つまり、あらゆるものからの疎外により階段を下りていくように下降していく人生のこと——それは例えば「アメリカン・ヒストリーX」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のような映画のことだったと思う。

 

どん底映画なのに「ジョーカー」が人気あるのは、どれだけ気持ち悪く演じても結局ホアキン・フェニックスは美しい人間で、ジョーカー化した彼がかっこよく見え、なおかつ今まで虐げられてきたことへの復讐を、マレーや証券マンを通じて実現しているように見えるところにスカッとするからだろう。映画を通して、あるいは生活の中で感じているストレスを、魅力的なヴィランに乗せて発散させられる。

 

しかし、注意深く見るとアーサーは「復讐を果たしている」わけではない。証券マンたちは自己防衛で突発的に殺してしまっただけであるし、マレーのことも計画されたものではなかった。むしゃくしゃしてやった。殺す気はなかった。というのを地でいっている。

結果的に社会現象の象徴になってしまったアーサーだが、それも彼が望んだものではなかった。最後に、車から担ぎ上げられて立ち上がったアーサーが血で笑い顔を作るのは、冒頭の泣き笑いしながらメイクするシーンと対になっている。つまり、社会に適合できていないまま「笑い顔をつくって」適合した振りを続けるのだ。

ピエロ姿の群衆は、彼が妄想の中で望んだ「母親を愛し、つつましく暮らす自分を認めてくれる」人たちではない。それぞれの身勝手さを、団結ではなく利己性の発露として、アーサーに重ねているだけなのだ。だから、アーサーは自分を笑顔に描き替えて彼らが望む姿を見せてやった。この辺りは、あくまで「悪の組織」ではなく「利己的な個人の集団」としてジョーカー一味が誕生したきっかけとして、ダークナイト3部作と接続する。

 

上記を踏まえると、ダークナイト3部作のジョーカーはアーサーではないことが分かるし、最後に拘置所で「良いジョークを思いついた」ジョーカーすらアーサーではない可能性が高い。ホアキン・ジョーカーは、ヒース・ジョーカーが次々に言っていた嘘の過去の一つでしかない、というのが、自分の中で最もしっくりきた仮説だった。

 

妄想と真実の境目については、後になってみれば上述の通り「全部ジョーカーの妄想」と考えることができるとは思ったものの、見ている間は明確に「ここだろう」と思ったシーンがあった。それは冷蔵庫に入るシーンで、あそこでは不自然にカメラがぐにゃりと揺れる。その後、冷蔵庫を出たシーンが無いので、アーサーはそこで死んでしまって、その後はジョーカーの想像なのだろうと思った。テレビに出る話は非常に嘘っぽいので、その前に死んだのだろうと考えるのが自分の中では妥当だった。

実際のところはけっきょく分からなかったが、友人に聞くとあのシーンはアドリブだったらしいので、そもそもカメラの揺れに大きな意味はなかったのかもしれない。