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自分を飾ることと、年齢の話

 

社会人になって数年経った頃、大学の頃から仲良くして頂いていた哲学の先生に「自分はアクセをつける習慣がない」という話をしていた時のこと。先生が「人は自信がなくなってくるとアクセサリーをたくさん着けるようになります、あなたももっと年を取ったら、たくさんつけているかもしれませんよ」と冗談めかして仰っていました。

 

正直なところ、「うわー、このヒトこんなこと言うんだー(やだな)」と思いました。女性が年を取ると、容姿が衰えて自信がなくしますよ、と言っているように感じたからです。そして、上の言葉を言った瞬間の先生の頭の中は、少しはその通り考えていたのかな、と思います。

 

この話には続きがあります。

曰く、「年を取ると、大事なものが増えて見えたり、自分の功績じゃないものを所有しているように感じたりして、それを手放せなくなることがあります。自分が本当に何を成し遂げたか、年を取ってから分かる人はいないのかもしれません。

私は、本も論文もいくつも書きました。それは成果として目の前にあるんだけど、実際に心を満たしてくれるものは、誰かが、たぶん深く考えずに言った賞賛の言葉だったりします。それを人生のあちこちで、もう味のなくなったガムかアイスの棒でもなめ続けるように、ずっとずっと反芻しているのです。人生を支えてくれるのは、結局はそういったものだと思うんです。」

 

何年か前の会話なので、言葉の端々はちょっと変わってるかも。でも、この「味のなくなったガム」のくだりが忘れられず、今でも私なりに反芻している言葉です。

 

先生は、家族や家、気安い友だちなど、何でも手に入れられそうに見える人です。なのに全て手放し、自分の成果の本当の果実の、そのまた抽出されたものだけを糧に生きておられました。それは、その当時恋人もいて、大きな会社に守られ、気安い友だちもいた自分を否定するものに感じたものです。

 

そんな先生は、一つずつ大切なものを身から剥ぐように手放していき、今は何もない海岸の古い家に一人で住んでいます。かなりご無沙汰しているけれど、元気でいらっしゃるのかな。Facebookで長い独白を見かけることもあったけど、最近は何も書かなくなられました。

 

年齢と比べて奇妙なほど若々しい、でもなぜか生徒に好かれない先生でした。夫が先生の本を見かけて買ってきたのですが、今はなんとなく読む気になれず、でも部屋の目立つところに置いてあります。

 

そういえば、先生に「なるべく人の助けを借りない生き方をしたい」等と言ったことも、いま思い出しました。顔から火が出て悶絶しそうなくらい恥ずかしいです(*=_=*)いやもう、全方位に助けられてるよ当時のワタシ。

 

今でも私は、ストイックからほど遠い、たくさんの助けと、100%自分のものではない成果と、生活を彩ってくれるように見える家などのモノに囲まれています。それを「あっちの方が良い」「このデザインが…」などとあーだこーだ言うのが楽しい、そんな生活。それはたぶん恵まれてて良いことなんだけど、そういったものに驕り、自分の当然の成果のように思いたくないな、と思います。

 

現在、やっぱり私はアクセをつけていません。興味がないわけではなく、pinterestで気に入ったアクセをアクセフォルダーを作ってpinしてあるし、店でチラリと見たりもします。でも買うまでには至りません。「つけてみられませんか?」と店員さんに言われると、夢から覚めたように「いいです、ありがとうございます」と言ってしまいます。同じお金でも、家族で旅行に行ったり、毎日使う綺麗なお皿を買ったり、美味しいものや珍しいものを家族で食べたりすることが思い浮かんで、自分でお金を出して買う気にならないのです。あるいは、アクセが先の話の象徴となって、自ら遠ざけているのかもしれません。

 

もっともっと年を取って、「自分が何をしたか」「自分の家族が何をしたか」「自分の会社が何をしたか」渾然となって分からなくなった頃に、もう一度先生に会いに行けるだろうか?その時、アクセをつけているだろうか?

 

今朝、支度をしていてふと思い出したお話でした。