MENU

ハウス・ジャック・ビルト(2019年、アメリカ)

『ハウス・ジャック・ビルト』映画前売券(一般券)(ムビチケEメール送付タイプ)

ラース・フォン・トリアーの新作映画。なんだかんだ言って毎回見に行っちゃうんだよな…。今回もいそいそ見に行って、予想通りゲンナリして帰ってきた。前回も「こんな映画を見るために家族を家に置いてくるなんてどうかしてる」と思った記憶がある。今回もそう思ったし、家に着くと娘が最高の笑顔で出迎えてくれたのでなんだか後ろめたかった。

しかも今回は連続殺人犯の映画だ。最悪だが、不思議と清涼感も残る映画だった。前作の性依存症の映画「ニンフォマニアック」は全くスッキリしない映画だったので、今作はそれよりは好きだった。

 

殺人に取りつかれてしまう技師の男の映画で、男はなんだか家を建てたいらしい。この「家」というのがモチーフになっていて、それは例えば創造的で価値のある男になることとか、根性のある男になることとか、そういう意味合いになっている。最初に殺される女(ニンフォマニアックで超面白かったミセスB!)が殺されたきっかけが「あなたはそんな根性のある男じゃない」と言われたことだったことや、流れ続けるグレン・グールドの映像(こんな映画の引き合いに出されて、彼には大迷惑だろう)とそれに対する憧憬みたいな描き方で表されている。

「家」を建てることは、理想的な美の形をつくることであり、人間として完成されることなのだ。

 

しかし、この「家」が建たない。

レンガを積み上げてはブルドーザーで切り崩し、同時に殺人を重ねていく。家の模型を何度も作り直し、今度は木構造を組み立てては、また壊す。繰り返される殺人の手法も様々だ。個人的には、車で引きずられる女性と、子どもと一緒に狩られる女性がトラウマ級だった…。おっぱいもどうかと思ったが…。こちらはいかにもアメリカのスプラッター映画という感じ。狩られる家族については、まぁ動物の目線で見たら同じだよなぁとも思い、やはり動物を食べることは罪深いと思ったりもした。

 

興味深いのは最後のシークエンスだった。死体で作った家の底に穴が開き、その中を「地獄の案内人」と共に探検する。これはどういう意味のあるシーンなのだろう?映画を作り続けたその先に、こんな地獄が待っていると思っているのだとしたら寂しい感じがする。人々の叫びが超音波のような音となって襲い掛かってくる。ジャックは「ジャックよ、戻ってくるな」という歌とともに地獄の底に落ちていく。

 

全体構成はニンフォマニアックとほぼ同じだった。嫌~なシーンの合間でスノッビーな蘊蓄が語られるところも似ているし、出会う人の単位で章割りされているところも同じ。

だが、前作の方は主人公と視聴者の間に距離を感じたのだけど、今作は不思議ともう少し主人公の目線で物語が進んでいるように感じた。また、ニンフォマニアックは「孤独だが、これからも自分の力で生きていく」というラストだったが、ジャックの方は人生の最後が見えて、自分を罰するようなラストだった。監督の考え方も変わっていっているのかもしれない。