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アートと建築の境界。石上純也氏の最新のプロジェクト

 

建築家・石上純也氏2つのプロジェクト

一昨年、オランダで勝ち取ったビジターセンターのコンペと、先月、台湾で勝ち取ったフェリーターミナルのコンペ。石上純也氏は、ここのところ続けざまに大型プロジェクトを獲得している感があります。

同氏の建築は、そのありえなく繊細でぽっかりとした空間を実現するギリギリの構造のために、「まず、建つのか?」と不安に思ってしまいます(^_^;)そんな石上氏と、最近の建築について思う所を書きます。

 

建築はアートではない

デザインとアートの違いは、道具かそうじゃないかの違いだと思います。だとすると、建築は基本的には住んだり雨風を凌いだりするための道具なので、アートではないということになります。

 

でも、最近感じるのは、いま「何かを変えそうだ、新しい」と思う建築が、アートの一手法である「インスタレーション」に近いということです。インスタレーションを制作している人を見ていると、建築家がやっていることと何一つ変わらない、と感じます。また、建築家がインスタレーション作品をつくることも多々あります。

 

30分で猫に壊された、石上氏のベネチアビエンナーレの「作品」

石上氏が2010年のベネチアビエンナーレ発表した、繊細な柱と糸で作られた作品は、そのあまりの繊細さのため、なんと完成直後に通りすぎた猫のせいで倒壊してしまったのだとか。「インスタレーションとしても失敗やないかい!」というツッコミはさておき、確実に今までの建築家像、建築像とは違う何かを目指しているということがお分かり頂けるかと思います。 

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細ーい!見えますか?

 

ギリギリの緊張感、いまにも壊れそうなものの存在感

続いて、 同氏が2007年に発表したインスタレーション、「四角い風船」。こちらは、アルミの板を組み合わせて作った四階建てのビルくらいの大きさの箱に、ヘリウムガスを充填した袋を閉じ込めて浮かせたものです。簡単に書いていますが、箱は1トン。大変重い塊を、これまた大変強い浮力で持ち上げているわけです。

ゆったりと人の頭上を浮遊していますが、これが落ちたらぺしゃんこですね。(実際は、浮遊空間に人が入れないようになっています)

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photo from "the fox is black"

 

最後です。2005年に、独立直後に発表した「TABLE」。異常に薄っぺらく、広すぎる天板、細い足。見るからに構造が成り立っていなさそう(((( ;゚Д゚))なんか天板、触ると波打つし(泣)

と、思いきや。こちらは、成形時に壊れる方向と逆の力をかけることで、地面においたときにテーブルが形を保てるようにしているのでした。だから、ひっくり返すと、元々かけられた力のせいで足も天板もクルリと巻いてしまうそうです。

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photo from JDN

とかいって見たことないのですが(*_*)

 

これらに共通するのは、快適で慣れた環境を歪ませる、ヒヤリと総毛立つ感覚を起こさせるものだということです。自分がいつの間にか得てしまった、常識的空間感覚を狂わせ、常識とは何であったか、問い直す。それは、現代アートの持つ「考えさせる力」と全く同じ類いのものです。

 

建築はアートに向かっているのか?

石上氏の作品、「建築じゃなくてアートやん!」と思われたと思います。ちゃんと建築もつくっています、少ないですが(^_^;)建築はアートに向かっていっているのでしょうか?

 

建築がアートに向かっているか?という問いの前に、そもそも建築がどういうことによって進化をしてきたのかを考えると…、技術の進化です。もっといえば、構造から自由になっていくことが、建築空間を大きく変えてきました。

 

古くは教会建築において、構造の技術が進化するに従って天井が高くなり、壁は開口が増え、より明るく、大きく、ステンドグラスなどによりデザインが施すことができる空間になっていきました。

現代建築においては、スチールと鉄筋コンクリートの大量生産技術が生まれたことにより、より構造から自由に壁を立てられるようになったことが進化の発端です。

 

建築はこれ以上自由になれない

では、次なる新しい構造がどんな自由をもたらせるかというと、難しいですね。これ以上構造が自由になったと仮定して、例えば透明になるとか?もはや柱はなく、床や屋根がリニアモーターカーのように浮いているとか?

しかし、どうせ収納や間仕切りなどは必要なので、これ以上構造が自由になる必要性は、あまり感じませんね。皆さんも暮らしていて、この柱が邪魔で!ということよりも、どうやって外からの視線を遮ろう?ということの方が気になられているのではと思います。

あるいは、3Dプリンターの性能がどんどん良くなって、自由に3次曲面を現場でグリグリつくれるようになる、なんてことがコストも含めできるようになったとして、「それは必要か?建築を変えそうか?」というと、ギモンです。

自由度があまりに高くなると、人は思考停止してしまうからだと思います。

 

次の建築になりそうなモノ

一つの可能性は、作り手が建築家である必要がなくなるということ。設計士でなくとも、ある程度キャドが使えれば、誰でも量産型マンションが作れてしまう時代。

もし、さらに手軽にアプリなんかで好きな空間をちょちょいと作れて、最後に設計士等々にチェックしてもらうだけになれば、それはそれは建築を大きく変えそうな気がします。インターネットや素人のミュージシャンの存在が、音楽業界を大きく変えてしまったことと似ているかもしれません。もしかしたら、3Dプリンターも活躍するかも?!

 

もう一つは、リフォームやリノベーションなど既存の建築物を補修して使っていく建築です。人口が減ってきている国に関して言えば、建物そのものが新しく必要にならなくなるわけですから、いかに再利用するか・使う空間を減らしながら使うかということが現実的な課題になります。これは、もうすでに大きな流れになっています。

 

これら二つは、誤解を恐れずに言えば、アカデミックな存在であるところの「建築家」の役割が、限りなく小さいものだと思います。(リノベーションに関してはそうではない例も多々ありますが、リノベーションしかしない建築家は従来の意味での建築家ではないと思います。誤解を恐れずに言えば!)

 

建物は、とてもとても大きいから。

それでも、建築家は必要だと思います。というか、思いたい。。

 

超個人的な考えですが、理由は二つあります。

 

一つは、単純なセンス、教養の問題。

誰しも美しいものが好きです。多くの人の目に触れ、多くの人に利用されるものだからこそ、建築物は本来的には美しくあるべきだと思います。

そうではないものが蔓延っていようと、せめて公共性の高いもの、大きいものはセンスのある人間がやるべきという考えです。

 

でも、大きい新築物件は減っていくでしょう。また、この観点のみでは、本来の建築家ではなく、建築デザイナーでしょう。(私は単に美しいだけの建築も大好きですが(・ε・`*))

 

そしてもう一つが、「常識を疑い、問題提起をし、誰も体験したことのない空間をつくりだす」建築家像です。そして、このタイプに、冒頭紹介した石上氏など、非常にコンセプトの強い作品を発表している近年の建築家が当てはまると思います。

 

建築家は死なない

建築は、常にその時代の技術の結晶であり、文化の象徴であってきました。しかし、モダニズム建築が実現したものはこれ以上の全く新しい空間は産み出さないし、人々の暮らし方を劇的に変えることはないでしょう。

 

次の建築は、技術ではなく、コンセプトによって建築家が新しくつくらなければならないのだと思います。

だから、建築家はまだまだ存在意義がある。そして、これからの建築家は、これまで以上にアーティストに近づいていくのだと思います。

 

※ものすごく建築家の肩を持っていますが、建築業界と無関係な人間の意見です。

 

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VIA:junya ishigami wins port of kinmen passenger service center contest

VIA:junya ishigami curves visitor center through park groot vijversburg

 

こちらは参照元ではありませんが、まさか知恵袋で石上氏のトピックがあるとは思わなくて面白かったので(^.^)

→ http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1253521647

 

 

 

追記:書いていて、そもそも建築家の定義をしないと意味わからんなと気づきましたσ(´・ω・`)調べても納得いくものがないのでこれまた超個人的に定義したいと思います。「建築家とは、建築物を、技術・文化・歴史・社会・風土・美学などの観点から設計する人のこと」ではないかと思います。与条件とコストで設計するのは設計士、自らの美的センスと流行でデザインするのが建築デザイナーかと。ちなみに、三者の中で一級建築士の資格が必要なのは設計士のみです。