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荒れる中高生「リリィ・シュシュのすべて」と「渇き。」

映画の感想文

 

※ネタバレ

 

なんとなく気になっていた「リリィ・シュシュのすべて」をやっと観た。内容は援助交際やいじめ、自殺などを取り上げたハードなものだが、どんなシーンでもドビュッシーの「アラベスク」と「月の光」などの穏やかな音楽が流れている。視界は辛いけど耳は癒され続け、モヤモヤが残った。

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同じようなテーマでも全く違う描き方をしているのは、モンスター女子高生のパニックホラー映画(?)「渇き。」である。中高生が荒れ、女になりかけている子供の性をオトナに売ってお金を得、また多くの者を傷つけて破滅する。大まかな話どちらも同じなのだが、「リリィ」と「渇き」が全く違うのは「大人の存在感」だった。

渇き。

 

「リリィ」では意識的に大人の存在感を排除されている。中高生の心の世界がホワホワとしかし暴力的に描かれる一方、大人は「理解できない」「現代っ子ですからね」と子供を突き放して影響力を持たないし、彼らの欲望もはっきりとは描かれない。援助交際のおじさんたちも、悪意はないがたまたまチャンスに乗った普通の人間に見えている。気持ち悪さやいやらしさを排除した、ドライな画なのだ。

「渇き」ではそもそもの悪の根源が大人(=暴力団)だとされているし、大人の醜い欲望をこれでもかと描くので、非常に気持ち悪いけれどモヤモヤはしない。不良少年たちもいかにも不良っぽい容貌をしていて、強烈な記号性があるので客観視しやすい。(ただ、原作では女子高生が復讐に走るきっかけが父親の存在だったが、映画では女子高生が生まれつきモンスターだったというふうに変えられている。それはそれで「モンスターだから」という理由づけになっていて、モヤモヤはしない。)

 

「リリィ」でモヤモヤした理由は、ごく普通の子供たちがきれいな音楽とどこにでもありそうな田舎町を背景に荒れまくるので、観ている私はどこに立てばいいのか分からなかったせいだ。「それが現実だから」ということなのだろうか。窃盗→いじめ→援助交際→自殺→レイプ→殺人が1年足らずの間に起こるっていったいどんな場所なの…。自分の中高生時代を振り返ってみると、学校内ではそういうことはなかったものの、他校では「荒れている」とされている所もあった。ただ、彼らは見た目からして「いわゆる不良」であり、素朴な田舎の学生が陰湿な事件を起こすという感覚ではない。エリアによっても違うのかもしれない。

人は何かの事件があると必ず「理由があるのだ」と思いたがるし、特殊なことなんだと思うことで他人事化したいものだ。「リリィ」の「まったり荒れ」を「分かる!」という人がいたら、ぜひ話を聞いてみたい。

 

「リリィ」で心を打たれたのは、久野という女子生徒のキャラクターだった。聡明で、レイプされても屈せず、頭を坊主にして毅然と登校してくる強いキャラクターだ。中高生でこの人間の出来っぷりってどうなの…と思わないでもなかった。

対照的なキャラクターとして、平凡な女子生徒・津田がいる。久野と同じくピュアな存在で、でも心が柔らかくて脅されるままに援助交際を続けてしまう。津田は久野と違って「女子高生」という記号を強く纏っていて、自分の身体性を変えることがない。最終的に、こころを搾取されるのに耐えられなくて死んでしまう。

一方、久野は頭を刈ることで「脅されて援助交際をさせられる女子高生」であることから簡単に脱してしまった。合唱会の伴奏の件でも、簡単に「伴奏者ではなくなるための方法」を頭で考えて実践してしまう。モヤモヤしがちなこの映画の中では、かなり爽快感のあるシーンだった。(まあ、やはりちょっと出来過ぎな感じはある。)

 

深刻な性被害に遭った人は、被害に遭った自分の身体性を否定すること、自分を否定することにつながりがちであるという。多感な時期に、女の子が頭を刈るという行動に至るまで、どんな内面の動きがあったのか。映画だからそんなものは最初から存在しないのだけど、仮に想像してみると心が痛み、その強さに打たれる。毅然と、しかし頭を気にしながら教室に入ってきた久野の姿が何度も思い出される。

 

 

***

 

 

全然違うけど、どちらも良い

「渇き。」は画がとにかく汚く、暴力的で、目を背けたいのに、小松菜奈演じる「加奈子」の小悪魔的魅力についつい観入ってしまうという地獄のような映画だ。小説では残されていた「加奈子」への感情移入を、加奈子をモンスターにすることで一切排除し、鑑賞者は加奈子にいたぶられる登場人物たちが見ている地獄を一緒に体験させられるのだ。役所浩司もすごすぎる。2時間ずっと汗と血にまみれている。ちょっと安っぽいかなと思う演出が多かったけれど、色んな映画やシーンのメタファーであったりする。ただ、「観なきゃよかった」という感想もよく聞くので、よほどのことがないと観ない方がいいのかもしれない。

 

「リリィ」は人気があるみたいだということで観てみたけど、個人的にはピンとこなかった。おそらく映画的には重要なポイントであろう「SNSでつながったリリィ・シュシュファン」の描き方がよく分からなかったせいかもしれない。映画の大半は、「ニコニコ動画」のようにリリィファンのサイトのコメントが流れている。カタカタカタカタうるさい…エーテルって意味不明…と夢のない見方をしてしまった。

好きだったのは、久野のキャラクターと、夢の中の出来事のような沖縄旅行のシーン。沖縄旅行のシーンは、そのあとに続く出来事との直接的関係がないのに、映画的には重要なエピソードだったと思う。星野は二度死にかけて、旅連れの男は突然死んでしまう。一方で、沖縄の女たちの溢れるような生命感、自然の瑞々しさ。死と生の境界があやふやなのだ。旅行の最後に札束をばらまくシーンがあるが、これは「リリィ」の女・金・権力などいわゆる「欲望の対象であるもの」からのぽっかりとした距離感を表したシーンだ。色合いも靄がかかっていたり、水中だったりとぼんやりしている。「渇き。」での絶対的価値は女・ドラッグ・金しかない。色合いもぱきっとしている。そういう違いがあった。